アライの新井でございます。
三度目ともなると、この名乗りに少しだけ慣れてきた感もありますが、なお若干の気恥ずかしさもあることを最初にお断りしておきます。
さて、いわゆる福音派の牧師である私が、LGBTQアライであるためには、やはり聖書的な根拠が必要なのではないかと考えてしまいます。
そして、そのような聖書個所として、真っ先に私が思い起こすのが、使徒の働き8章26節から39節に報告されている、いわゆる「エチオピヤの宦官の救い」の出来事です。
とは言え、それはどこまでも個人的なレベルでの根拠、言い換えれば、私が確信を持つための聖書的な下支え程度のもので、誰もがこの個所を、私と同じように解釈し、すぐにLGBTQアライになることができるなどとは、私も思っていません。
ただこの記事を読んで、一人でも多くの方が、聖書の福音は決して性的少数者の方々を排除していないこと、むしろ、積極的に受け入れ、ある意味では、最優先に、その恵みのうちに招いておられるのであるということに、聖書そのものから確信を持っていただけるようにと心から願っています。
さて、ご承知の通り、「宦官」というのは、おもに女王や王室の女性たちの側近として仕える去勢された官吏(すなわち、役人)を指し、古代中国やオリエントにおいて、奴隷の身分ではありながら重用され、権勢を誇る者が多くいたと言われています。
そして、この使徒の働き8章に登場する「エチオピヤの宦官」もまた、炎天の荒野を「馬車」に乗って悠々と旅していたこと、また、相当に長期にわたる休暇を取っての「エルサレム」への巡礼を許されていたことなどから、女王からの信任も厚く、大きな権勢を誇る人物であったのであろうと考えられます。
つまり、この「エチオピヤの宦官」は、民族的には恐らくアフリカ系、また、地理的には、ギリシャ・ローマを中心とした当時の世界観においては「地の果て」を象徴するような人物であり、性別は、当時の感覚としても、完全な男性ではなく、かといって女性でもない者として、異教の国の女王に仕え、奴隷でありながら、大きな権勢を誇るという、非常に複雑、且つ、モーセの律法によれば、あらゆる意味で、神の救いから最もかけ離れた存在であったと理解することができます。
ところで、8章30節によれば、この「エチオピヤの宦官」は「預言者イザヤの書」を読んでいたと報告されていますが、この「宦官」が数ある聖書の巻物の中から、「イザヤ書」を読んでいたということには大きな意味がありました。
というのは、旧約聖書の中で、「イザヤ書」ほどに「福音」、すなわち、救い主キリストによる贖いの御業について、はっきりと言及している書物はまれであるからです。
また、使徒の働きの著者ルカによって、8章32節33節に、敢えて引用されているイザヤ書53章7節から9節が、特に「キリストの受難」、すなわち、十字架の御苦しみ、中でも「黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように」「口を開かなかった」という、「沈黙」と「堅忍」、また、「卑しめられ、そのさばきも取り上げられた」という、言わば「恥辱」を強調する箇所であったことは注目に値します。
なぜならば、そのキリストの十字架に現わされた「沈黙」と「堅忍」、また「恥辱」こそが、この出来事の主人公である「エチオピヤの宦官」が背負っている、正しくは、当時の社会全体によって背負わされている人生の痛みと、深く響き合うものであったと想像できるからです。
それは、この「宦官」が、確かに大国の官吏として、経済的にも、政治的にも、大きな権勢を持つ者でありながら、自らのアイデンティティに関わる重要な部分において、身体的にも障害を抱えた人物であり、また、奴隷であり、その時代において、特に多くの偏見にさらされている人物でもあったからです。
またその上で、この「宦官」が、「イザヤ書」の中に、熱心に自らの救いを求めていた理由は、恐らく、その中に「宦官」に対する希望のメッセージが、はっきりと言及されているためであったろうと、多くの研究者たちが指摘しています。
つまり「宦官も言ってはならない。『ああ、私は、枯れ木だ』と(イザヤ書56:3)」という聖句が、イザヤ書には含まれているからです。
ですから、8章34節にある「預言者はだれについて、こう言っているのですか」という「宦官」の問いかけは、言い換えれば、「いったい誰が、私をこの苦悩から救い出してくださるのですか」という問いかけであって、私たち苦悩する人間にとって普遍的な問いかけ、言わば、「魂の叫び」では無いかと思います。
そこでこの問いかけは、ローマ人への手紙7章24節における「私は、ほんとうにみじめな人間です。(いったい)だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」というパウロの「叫び」と、深い部分で、本質的に響き合っているように私には思われます。
そして、そのような「叫び」、すなわち、この世の一切の苦悩と悲劇からの救済を求める「魂の叫び」は、ただパウロやこの「エチオピヤの宦官」のうちにのみ見出されるものではなく、私たち人間のうちに普遍的に存在しているものなのではないでしょうか。
ところで、ここで最後に覚えたいことは、じつはこの「エチオピヤの宦官の救い」の出来事は、聖書の中で、初めて完全な異邦人に、はっきりと福音が宣べ伝えられ、バプテスマにまで導かれたという、教会の歴史全体の中で、非常に重要な記念すべき出来事なのです。
つまり、この「エチオピヤの宦官」という、あらゆる意味におけるマイノリティ性を背負った人物こそが、聖書に記録されている異邦人のクリスチャン第一号なのです。
そして、現代に生きるすべてのクリスチャンは、このことの意味を深く考える必要があるのではないかと私は思います。