アライの新井でございます。
最初にお断りしておきたいのは、この昭和のダジャレ的名乗りは、私のオリジナルではなく、某焚き火牧師のアイデアによるもので、恐らく1987年から1992年まで『mimi』(講談社)にて連載され、その後テレビドラマ化もされて人気を博した「白鳥麗子でございます!」という漫画のタイトルに無自覚に影響されたものではないかと某オカリナ牧師からの指摘もあります。
ところで皆さんは、そもそも「アライ(ally)」という言葉をご存じでしょうか。
この「アライ(ally)」という語をインターネットで検索すると異口同音に、英語の「同盟、支援」を意味する「ally」を語源とする言葉で、より平易に「味方」や「仲間」と訳されることもある、という説明がされています。
また、この語は特に同性婚やいわゆるLGBTQに関する議論の中で使われることが多く、日本LGBT協会の定義によれば「自分は、LGBTでは無いけれどLGBTの人たちの活動を支持し、支援している人たちのこと」であると説明されています。
それではそのようなことを踏まえて、福音派の牧師である私が「アライ(ally)」を標榜することについて皆さんはどのようにお考えになるでしょうか。
私としては、この「アライ(ally)」という言葉を、よりキリスト教の霊性にふさわしい言葉として「同伴者」と言い換えることができるのではないかと考えています。
また、聖書の中で、この言葉に最も近いのは「隣人」という言葉ではないかとも考えています。
特にあの有名な「良きサマリヤ人のたとえ」を語り終えられたイエス様が、律法学者に対して最後に投げかけられた「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」という問いにおける「隣人」とは、まさに「味方」や「仲間」、或いは「同伴者」という意味における「アライ(ally)」そのものを指しているのではかと私は思います。
そして、私としては、ひとりのキリスト者として、日々、そのような意味における、すべての人々の「アライ(ally)」でありたいと願っています。
それではこれから、その辺りのことを少し掘り下げてみたいと思います。
第一に、「良きサマリヤ人のたとえ」に限らず、私たちがイエス様の「たとえ話」を読むとき、その登場人物たちはそれぞれ、いったい誰を比喩的に表しているのであろうかという視点を持って読むことが多いのではないかと思います。
そして、私としては、そのような視点は、決して固定的ではなく、つまり、例えばあの「良きサマリヤ人のたとえ」に登場する「強盗に襲われた者」は、私にとって、ある時には私自身であり、またある時には、私が「アライ(ally)」として同伴すべき隣人であり、またある時には、イエス様ご自身であるように思われます。
まず、あの「強盗に襲われた者」が私自身であると考えるとき、「良きサマリヤ人」はイエス様ご自身であり、イエス様こそが私の「アライ(ally)」として、ご自身が持っておられるあらゆる良き資材(オリーブ油、ぶどう酒、デナリ二つなどに象徴される私財とも解される)を用いて、具体的助けとなってくださるお方であると理解できます。
次に、恐らくこれが、最も一般的な理解に近いのではないかと思いますが、もしあの「強盗に襲われた者」が、私が「アライ(ally)」として同伴すべき隣人であると考えるなら、私もまた「良きサマリヤ人」同様、自分の持てる資材(時間やエネルギーなども含む)を用いて、具体的助けとなるように招かれているのであると理解できます。
また、この視点において重要なことは、私が「アライ(ally)」として同伴すべき隣人は、言葉遊びのようになりますが、文字通り私の「隣人」であって、別の状況的文脈では私にとっての支援者という意味における「アライ(ally)」となる可能性をも秘めているということです。
しかし、私たちはそのような変化が、自動的、或いは自明的に起こることを期待するべきではありませんし、恐らくイエス様ご自身もそのような意図で、この「たとえ話」を語ってはおられないであろうと思います。
最後に、これはあの「たとえ話」が語られた文脈から、十分引き出し得る視点であると思いますが、あの「強盗に襲われた者」がイエス様ご自身であると考える場合、「たとえ話」のきっかけとなる質問をした律法学者が当初から「イエスをためそうとして」問いを発していることから言えば、彼は「たとえ話」の中の「祭司」や「レビ人」よりも、むしろ「強盗」に象徴されていると理解することも行き過ぎではないと思います。
そして、ある意味でイエス様は、そのような律法学者の剥き出しの敵意にさらされながら、そのやり取りを傍観している弟子たちをも十分に意識しつつ、誰かこの中に、「良きサマリヤ人」のように犠牲的に、ご自身の「隣人」、つまり私の認識で言えば、「アライ(ally)」となってくれる者はいるだろうかと、暗に問いかけているのであるとも理解できるのではないかと思います。
以上のことをまとめれば、私としては、あの「良きサマリヤ人のたとえ」においては、第一に、イエス様ご自身が私たちの「アライ(ally)」として、良き「同伴者」となってくださるお方であること、第二に、私たちすべてのキリスト者は、互いに「良きサマリヤ人」のような、すべての隣人にとっての「アライ(ally)」となるように、第三に、何よりも私たちキリスト者はイエス様ご自身の「アライ(ally)」として、良き「同伴者」となるように招かれているのであると理解しています。