アライの新井でございます。
繰り返しになりますが、これは私が自分からそう名乗り始めたのではなく、某焚き火牧師の命名によるものであるということです。
とは言え、私が「アライ(ally)」を自ら標榜していることは事実であり、また自ら「アライ(ally)」を名乗ること自体は、自己満足に陥りがちであるということがよく指摘されていますので、第三者から「アライ(ally)」と認められ、また、そう呼んでいただけるのは大変ありがたいことだと思っています。
さて前回は、ここ数年、社会に広く知られるようになった「アライ(ally)」という新語の一般的な意味と、そのような意味を踏まえて、私が個人的な信仰理解の深まりとして、「アライ(ally)」という言葉を、よりキリスト教の霊性にふさわしい言葉として「同伴者」と言い換えることができるのではないかと考え、私としては、ひとりのキリスト者として、日々、そのような意味における、すべての人々の「アライ(ally)」でありたいと願っている、という現在の心境を分かち合わせて頂きました。
そこで今回は、そもそも福音派の牧師である私が、何故「アライ(ally)」を標榜するようになったのかという経緯を、短く分かち合わせて頂きたいと思います。
ご承知の通り、旧来、多くの福音派の教会や牧師たちは、いくつかの聖書個所を根拠として、私の経験から言えば、そのことになんら疑問や葛藤を抱かずに「同性愛は罪である」と教えてきたのではないかと思います。
とは言え、恥ずかしながら、私は牧師でありながら、ほんの数年前までは、このテーマについてほとんど深い関心はなく、また、いわゆる福音派に限らずキリスト教界全体が、同性愛を含む性的少数者の方々を差別し、締め出してきたという歴史的認識さえ持っていませんでした。
その私が、いくつかの主にある出会いや経験を通して、この問題、それはいわゆる性的少数者の方々にとっての問題ではなく、愛と和解、多様性と統一を伝統的に重んじてきたはずのキリスト教会が、性的少数者の方々ばかりでなく、時代や地域によって様々な属性の人々を差別し、また聖書を根拠にして、それを正当化し続けてきたという、言わば、教会の側の問題に、深く心を痛め、深い関心を持つようになりました。
そうして、この「教会による差別」という問題について、自分なりに真剣に学び、また、様々な情報にアクセスし始めた頃、インターネットである動画に出会いました。
それはある同性カップルの結婚式の様子を記録したドキュメンタリーで、その中でインタビューを受けた多くの人々は、涙ながらにその同性カップルの結婚を祝福していました。
その動画を見ながら、私の心には、直感的にヨハネ福音書2章1から11節に記されている「カナの婚礼」の場面が思い浮かんでいました。
そして、もしイエス様がその場にいたならば、そこでもイエス様は、喜んで水をぶどう酒に変えられたに違いないという確信が与えられました。
それ以来、私にとって、愛は愛であり、そこに同性間異性間の区別はなく、神はこれを祝福し、喜んでおられること、同時に、主なる神とキリスト、また御霊からなる三位一体にして、愛そのものである神は、どのような差別をも喜ばれないであろうという確信が与えられました。
思い返すに、そもそも私には、同性愛を含む性的少数者の方々や、その他多くのマイノリティー性を持った方々に対する偏見があまりなかったように思います。
それはいわゆるクリスチャンホームではない、しかも、一般的な家庭と比較しても家族機能が破綻した家庭で育ち、二十五歳で信仰を持つまでは、まったく世俗に浸りきった生活をしてきた中で、性的少数者の方々に限らず、多くのマイノリティー性を持った方々と知り合い、かかわりを持ってきた、という私の生育歴とも関係しているのかもしれません。
しかし今は、そのような自らの生育歴にも、また、そのような中で私という人格を練り上げて下さった主なる神ご自身にも、心から感謝しています。
私は神を恐れるひとりのキリスト者として、特定の聖書の解釈について、誰かと議論したいとは思いません。
ただ単純に「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」また「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という主の戒めに、日々、忠実にありたいと願っています。