アライの新井でございます④( 新井健二)

アライの新井でございます。

四度目ともなると、この名乗りに気恥ずかしさも消えて、もうどうにでもなれという気持ちになってきましたことを告白致します。

さて、今回は親愛なる皆様に、LGBTQアライ、或いは、あらゆる差別や偏見に苦しむすべての人々の「同伴者=アライ(ally)」となることの信仰的利点、或いは、効能とも呼べるものを分かち合わせていただきたいと思います。

ご承知の通り、私たちクリスチャンの信仰による救いという概念の中には、病や傷の癒し、またある種の囚われの状態からの解放という意味が含まれています。

そして、この信仰による癒しと解放というテーマについて考えるとき、私の頭に真っ先に浮かぶのは、「赦しによって癒される最初の人、そしてしばしば唯一の人とは、赦しを行うその人である……。本心から赦すとき、囚人を解放するが、その解放した囚人とは自分だったことを発見するのである」という、フィリップ・ヤンシーがその著書『誰も知らなかった恵み』の中で引用しているルイス・スミーズの言葉です。

誤解しないでいただきたいのは、私がここで「赦し」という言葉を含む、この文章を引用しているからと言って、私がLQBTQの方々を、他の人々に優って特別に赦される必要を持つ罪人であると認識しているわけではないということです。

そうではなく、フィリップ・ヤンシーがその著書の中で、繰り返し強調しているように、誰かを「赦す」ということが、私たち人間にとってはいつでも非常に困難であり、それは私たち人間社会に浸透し、或いは、本能レベルで私たちを支配している「恵みに非ざるもの」のせいであることを思い起こしながら、クリスチャンでありながら、ある属性を持つ少数派の人々を受け入れることができず、差別し続けるという状態もまた、ヤンシーが語る「恵みに非ざるもの」であると認識しているからです。

ところで、『誰も知らなかった恵み』の冒頭には、私にとって生涯忘れることのできない、ヤンシーがある友人から聞いた、短いエピソードが紹介されています。

「悲惨な状態に陥った売春婦が私のところに来た。ホームレスで健康状態も悪く、二歳になる娘に食べ物を買うことさえできずにいた。(中略)この女性に何と言えばよいのか、わからなかった。ついに私は、助けを求めて教会に行こうと考えたことはあるかと尋ねた。彼女の顔をよぎった、あの純粋な驚きの表情を忘れることはないだろう。『教会だって!』と彼女は叫んだ。『あんな所、行くもんか。自分のことはもう十分惨めに感じているのよ。教会なんかに行ったら、もっと惨めな気持ちにされるだけよ。』」

続けてヤンシーは次のように書いています。

「友人の話で私の心を打ったのは、この売春婦に非常によく似た女性たちは、イエスから離れて行ったのではなく、飛びついていったということだった。女性は自分に悪感情を持っていればいるほど、イエスを避難場所と思った。教会はそのような賜物を失ってしまったのだろうか。」と。

この短いエピソードとヤンシーの言葉の中には、本来、恵みの「賜物」を専売特許とするはずのキリスト教会から、いつの間にか、その「賜物」が失われ、今や「恵みに非ざるもの」が支配していることが示唆されています。

そして、この場合の「恵みに非ざるもの」とは、エピソード中の「売春婦」に象徴される、ある種の職業や属性を持った人々に対する差別や偏見であるということが分かります。

さて、そのように考えてみますと、今やキリストの教会を支配している「恵みに非ざるもの」から解放されて、まず自由にされなければならないのは、偏見や差別に苦しんでいる人々ではなく、むしろ、キリストの教会の成員である、私たち一人ひとりのクリスチャンであると言うことができるのではないでしょうか。

そこで私は、上に引用したルイス・スミーズの言葉を次のように言い換えたいと思います。

「私たちがあらゆる偏見と差別を捨てて、この世で虐げられているすべての人々の「同伴者=アライ(ally)」になることによって癒される最初の人、そしてしばしば唯一の人とは、「同伴者=アライ(ally)」となる私たち自身である……。私たちが本心から差別と偏見を捨てて、「同伴者=アライ(ally)」となるとき、囚人を解放するが、その解放した囚人とは私たち自身だったことを発見するのである」と。