「当事者理解の一助として③~親と家族に願うこと」(水谷潔)

〈願うこと、思うこと〉

 つくづく思います。家庭内で差別、拒絶をしたら、最悪です。家庭に居場所がなくなります。孤独を深めます。クリスチャンでも、自死を本気で考え、時に実行します。一緒に住んでいても、心は家族を離れます。信仰をもっていても教会生活を離れます。信仰からも離れるか、離れられず深い葛藤に苦しむかのどちらかのようです。しかし、親や家族が受容的、対話的でありさえすれば、そうしたことを避けられる可能性は、飛躍的に高まります。

 とにかく、親は、自分の思いや信仰的判断は横に置いて、ただただ、話や思いを聞くこと、傾聴することです。その上で対話的な関係を持っていくことです。とりあえずは、分析、指示、指導は不要です。間違っても、親は自分の失望を語り、子どもの存在否定をしてはなりません。一方的に親の正解を押し付け、子どもを正解の範囲に入れようとしてはなりません。それは、不正解なら愛さず受け入れないとのメッセージとして届きかねません。

 何よりも、子どもを愛し受け入れることです。何があっても、自分の子どもには変わりないこと、これからも愛し、支えていくことを明言することかと思います。受け入れるとは、「人格、存在」をそのままで愛することです。

 それは、必ずしも、子どもの願望や行動に賛同し、支持応援することはありません。「人格、存在の受容」と「願望の賛同、行動の支持」を混同してはなりません。まずは、前者がなければ、事態は悪い方向にしか進みません。後者についての不一致調整は、大切でしょうが、「信頼関係の中で扱うべき今後のこと」だと私は思います。

〈自らがザアカイだからこそ〉

 ザアカイは、人格否定どころか、罪を責められることもなく、「あなたの家に泊まりたい」とイエス様からの愛と受容の語り掛けに応答して、木の上から、下に降りて、新たな歩みをスタートしました。ですから、親は、自らがキリストに似ているかが問われます。

 家族の一員でありながら、深い孤独にいきる性的マイノリティーの子どもたちは、木の上にいるザアカイのようです。親へのカミングアウトは、「木の下に降りていいのかな?家に入れてもらえるかな?」という拒否を恐れながらの問いかけでもあります。

 どうか、木から子どもが降りられないような応答だけは、しないでいただきたいと私は懇願します。木の上に追い詰めないで欲しいのです。親が受け止めてくれないなら、親以外のところに飛び降りるしかなくなりますから。

 クリスチャンはみな、ザアカイです。罪と汚れの真ん中にいるそのままで、愛と受容の語り掛けを受けて、木の下に降りて、イエス様を心にお泊めしお迎えした者です。だとしたら、その同じ愛で、わが子を受け入れるべきではないでしょうか。そのことは、神の家族である教会にも言えることでしょう。

〈見えてくる方向性〉

 性的マイノリティーが持つ他の差別との違いは、「家庭内被差別」「家族からの拒絶」です。このことは、「肉の家族」だけでなく、「神の家族」にも当てはまります。当事者の側に立って、また、聖書が示す「愛による受容」がどのようなものかを考える時、たとい、保守的な信仰理解に立っているとしても、進むべき方向が見えてくるのではないでしょうか。