〈21世紀日本教会のための福音書9章〉
1.それからイエスは、21世紀日本のすべての町や村を巡って、御国の福音を宣べ伝えた。
2.また、人口比1%未満のクリスチャンより、はるか多数のLGBT⁺の者たちを見て深くあわれまれた。彼らが、キリスト教会に受け入れられないと考え、弱り果てていたからである。
3.そこで、イエスはクリスチャンたちに言われた。「この人たちについても、収穫は多いが、働き手が少ない
4.だから、収穫の主に働き手を送ってくださるよう祈りなさい。理解者、働きの先駆者たちを送ってくださるように祈りなさい。
5.さて、イエスは通りすがりに、LGBT⁺の人をご覧になった。
6.クリスチャンたちはイエスに尋ねた。「先生、この人がLGBT⁺なのは、誰が罪を犯したからですか?この人ですか?両親ですか?」
7.イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
8.教会は、キリストの体としてのわざを昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
9.教会が世にある間は、教会が世の光です。」
10.イエスはさらに彼に言われた。「地域のキリスト教会に行きなさい。教会は、あなたに神のわざを現わすことでしょう。」すると、その人は地域のキリスト教会の礼拝に集うようになった。
仮想福音書の続き
仮想福音書はここで終わりです。この後を記すのは、私たち自身だからです。日本の諸教会とクリスチャンたちは、この後にどんな物語を、綴っていくのでしょうか?実際に、近年は、教会内でのカミングアウトは増え、以前に増して、性的マイノリティーの求道者を神様は送ってくださっています。
6節の弟子たちのように、苦しむ当事者を前に、神学的議論をするのでしょうか?
7節のように、神のわざが現れることを願い、愛し、語り掛けるのでしょうか?
試行錯誤を怖れず、「先駆者」あるいはその「追随者」として歩んでいくのでしょうか?
それとも、先駆者たちを評価、批判するだけの「評論家」として歩むのでしょうか?
あるいは、安全地帯に留まり、これからも「傍観者」として歩むのでしょうか?
神様が愛し、救いへと招いておられる当事者を置き去りにして教会内で既に発せられている声なき呻きに気付くことのないままに。